あっきーブログ

障害×マラソン×外見×マインド

衝撃の過去 あきの自己紹介

私は病気を抱えている。
それは難聴、喘息、そして骨肉腫という病気です。
現在も病気に向かい、普通の人と一緒に生きています。

病気とあき

・難聴

現在の医学では解明できない点が多く、ある種を除いては完治させる術が無い非常に厄介な病気です。
一般的に耳の聞こえの悪い状態をまとめて難聴。

遺伝性難聴で生まれつき耳が悪い。
聞き取れない、聞き間違いがよくあり
生まれてから、そしてこれからも続く
※現在の聴力は中等度難聴。

👦「もう1回言って」
👧「言ったじゃん💢」

👦「うん?」
👧「うん?じゃないよ💢」
といったことはよくある。

電車での会話
遠い距離から会話
ガヤガヤした店での会話
更に聞こえない。
「怖いな」「話したいけど聞こえない」
結果、きょとんと場の空気を壊すことが
たまにある。

耳鳴りで「ピー」「キー」といった音が
四六時中頭の中をぐるぐるとする。

※補聴器外来に通い、昨年補聴器購入。
(両耳で50万程)

※難聴を自覚している患者が、補聴器を購入するために必要な、正確な聴力を検査してもらうために受診する外来です。

骨肉腫も相当辛かったけど、今は難聴が一番辛い。

・喘息

気管が慢性的に炎症を繰り返すことで粘膜が厚くなり、さらに痰などの分泌物が増加して気道が狭くなって、喘鳴ぜんめいや呼吸困難などが生じる病気です。多くは気管支喘息のことを指します。症状は軽症なものから、適切な処置が行われないと命にかかわるような非常に重いものまでさまざまです。

22歳の時に喘息なりました。
仕事が忙しく、ジャンクフードも好きだった。
ストレスなのか、不摂取なのか分からない。
風邪を引くと咳が長引くことが多くなった。
そして、深夜から朝方まで咳がとまらない。
「これヤバいな 死ねんじゃないか?」と思った。
朝になって意識を失って、起きて仕事といった日が
続き精神的にも肉体的にも限界をむかえた。
病院に行ったら喘息と診断された。
2週間に1回通院→1ヶ月に1回→3ヶ月に1回
と通院し、日常生活では全く問題なくなった。
吸引器を毎晩現在もやっている。

VO2 Max( 最大酸素摂取量 ) とは、人が体内に取り込むことのできる酸素の一分間あたりの最大量です。

日々の練習の成果、マラソンをやる上で問題はなくなった。

骨肉腫

骨にできる悪性腫瘍のなかで、最も有名な病気です(肉腫とは、広い意味の「がん」ですが、骨や筋肉・脂肪・神経・血管などに発生した悪性腫瘍を「肉腫」と言います)。発症頻度は、人口50万人あたりに1人とまれで、日本での年間発症数は約250例です。発症年齢は、10~20代の若年者に多い。

昔は不治の病などと言われていましたが、現在では化学療法(抗がん剤治療)によって劇的に生命予後が改善し、初診時に遠隔転移が無い症例では、5年生存率は70%を超えるまでになっています。


左上肢機能障害 障害者手帳3級取得。
肩関節から肘関節にかけて人工関節。

スラムダンクの作者井上和彦さん『リアル』
戸川清春は私と同じ骨肉腫である。

小学生6年生の時に発病。
バスケットボールクラブに入りました。
「筋肉痛かな?」と違和感がありましたが
特に気にしていませんでした。
痛みがとれず、近所の病院に行った所
「炎症のようなもの」と言われ、軽いリハビリ治療で数回通院しました。
プールの授業で違和感があり、バスケの練習で周りからは「左腕なんか変だよ」と言われましが、自分では気付かないことも多かった。
『なんだろう?』と思いました。数週間経ち
バスケの練習中に「ゴキッ」と強い痛みを感じ、コーチから「脱臼じゃないか?」と言われ、スポーツドクターの病院に行き、レントゲンを撮りました。
気になるから、MRI検査もしようと言われ翌日に
検査しました。
結果、骨折と影があると言われました。
良性、悪性の話をされましたが「90%良性だと思うけど」といわれたが「えっ骨折?バスケ出来ないじゃん」と骨折の方がショックだった。
更に翌日、緊急入院し精密検査を行い。
2時間程の手術で生検をしました。
結果は悪性であった。
告知されたのは、両親だけであった。
両親から「複雑骨折で半年入院が必要」と言われ、学校も養護学校編入が必要と言われた。
「半年もバスケ出来ないのか」と泣いた。

頻繁に採血を行い、痛いなと採血が嫌だった。
慣れない病院生活、バスケが出来ない、友達と会えない。
整形外科に入院していたが、入れ替わりが激しく病院で友達が出来なかった。
抗がん剤が始まると「気持ち悪い」「だるい」「食欲不振

骨肉腫は肺に転移しやすい為、(ファンギゾン)というオレンジの液体も飲むことになりました。


不味くて、最初の1週間は飲む度に吐いてしまった。
肺に浸透しないといけないので、吐いたらまた飲まないといけないので、吐かないように堪えた。
ある日父が試しに飲んだら「おいしい」とごくごく飲んでいた。
意味分からない笑

元々ぽっちゃり体型だったが、155cm、39キロと痩せてしまった。


食事はほとんどすることはなかった。
当時の病院食は、本当に不味かった。(17、21歳に入院した時はおいしかった)
左腕は完全に動かないように固定され、右腕は点滴
点滴すると腕がしづらい。両方とも使用出来ない生活が続きました。
点滴を続けると腫れてしまってまた別の所の繰り返し。拳にやったときは、パンパンに腫れ上がりドラえもんみたなったこともあります。
長い間治療になるため、右胸からカテーテルを血管に入れる手術をしました。
抗がん剤カテーテルからやるようになり、右腕がフリーになりました。
3ヵ月程抗がん剤治療をしました。
腫瘍も小さくなり、手術をすることになりました。
医師から説明があったが「うん?」よく分からず
腕が上がらなくなる?バスケが出来ない?
その場で泣き、夜も泣いた。
内容としては
腫瘍・肩関節・筋肉を摘出し、人工関節に置き換え手術。
10時間の大手術となった。



1週間は絶対安静でベッドから起き上がることも出来ない。
1週間後に抜糸をした時は「なんだこれ?」
あまりにも変わった左腕を見て絶望した。
「こういうことか?」絶望しているけど、なぜか冷静な自分がいた。

筋肉がなくなり、人工関節が鉄の固まりであり
バランスがとれず1週間の歩行練習のリハビリを行った。

半年間の入院後は

抗がん剤は1週間行い。
その後回復を待つ回復したら抗がん剤
なかなか大変。

小学校最後の方は元の学校に通いました。
国会議事堂見学では、母親付き添いで参加。
ありがたいけど、恥ずかしかった。
でも、ありがとう。
卒業式も出席し小学校生活が終わる。

中学校では抗がん剤治療後は3週間学校。
学校に着くまでで疲れる
階段で息が上がる
勉強が遅れる
(髪がないので帽子をしている)奇妙な目に見られる
キツイなでも、頑張ろう!

左腕の皮膚が薄くなりました。
左後背部の皮膚を移植する手術をすることになりました。
形成外科の手術も必要になり、左広背部の皮膚を肩に移植をしました。

抗がん剤治療もあわせて行い全ての治療が終わりました。

ずっとお世話になった腫瘍内科の女医さん。
背が低くて、いつも笑顔の優しい人。
いつも看護士さんに間違われて困ってる笑。
「あきくん 退院おめでとう」と手作りのチーズケーキ
をくれた。
「おいしかった 先生ありがとう」

振り返ると中学1年が一番辛かった
出席日数 200日105日
①入退院する
②ずっと入院する
②を選択するべきだった。
社会復帰するのが死ぬほど大変である。

学校に通うのが精神的に辛く1ヶ月間不登校
パワプロ(野球)サクセスをやってました。
オールA選手を量産することに1ヶ月間捧げた。


抗がん剤で痩せていたが、今度はお菓子や食事でストレスを発散するようになり激太り。
両親が心配する中、物に当たるようになったり、プチ家出
して父が迎えに来てくれた。
リア充な兄が妬ましく、兄にも当たるようになっていました。
「死にたい」と思うようになりました。
そんな中救ってくれたのは家族、友達、バスケでした。
心配した母が恩師であるミニバスのコーチに連絡しました。
コーチは入院生活から、バスケの雑誌差し入れ、そして手紙をくれました。
スラムダンクみたいに絶対にインターハイに行くんだと大事にしていたお守り、ジャージをあき頑張れってメッセージを込めてくれました。
このようにコーチを励ましてくれました。
家に来て一緒にピザを食べてました。
辛いこと、悩んでいることを真剣に聞いてくれました。
ただ詳しい内容は忘れました笑
コーチはバスケだけでなく、礼儀も教えてくれました。
克己心=自分との戦い、自分に負けない
座右の銘になり、ずっと支えてくれている言葉。

友達は入院生活から千羽鶴や手紙をくれて勇気をもらいました。
母から初めて手紙をもらいました。
内容は忘れました。
保管してあるが、見たら泣くと思うのでやめときます。
友達は家に毎日向かいに来て、居留守使っても来てくれた。
今日から学校行こう。
『時間』が動き出した。


このように辛いがありましたが、取り組んでいたのは運動でした。

運動とあき

・小学校時代 
【体重】デブ→痩せる

私は運動音痴です。
小学校の時は、逆上がり出来ず。
跳び箱も5段までしか飛べず。
プールは息継ぎが苦手で犬かきでMAX18メートル。
九九も苦手で親と何時間も練習してやっと覚えた。
なぜか5の段が苦手だった なぜだろう笑。
漢字も何回も書いてやっと覚えました。
何事も時間をかけないと出来ない。
「周りの人が出来るのが羨ましい」
不器用過ぎるのがコンプレックスです。
それは現在も・・・

兄がバスケを始めたことをきっかけに
小4から自然とバスケを始めた。
ドリブル、シュートも苦手だったけど
楽しくて続いた。
食べることが好きな人間で特にお菓子が大好き。
お小遣いを握りしめ、近所の駄菓子屋に行くのが
至福の時間。
自然とあだ名は「ポテチ」「ペペロンチーノ」
「マヨ」と様々な呼び方をされた。
バスケは激しいスポーツだがずっとぽっちゃりだった。
私の性格
・はまったらとことんやる
・好きなことはやる
真面目に練習をやっていたというのもあり
小6ではキャプテンとしてチームをまとめた。
コーチが怖くてビクビクと人の目線を気にする小心者だった。
私の力不足もあり歴代最弱なチームで
108対8で負けたこともあった。

練習している時「筋肉痛?」と違和感があった。
気になっていたが、練習を続けていた。
練習試合があった。
「おーい何やってるんだ」と怒られる。
何かも上手くいかない
実力を発揮せず完敗であった。
「何やってるんだろう?俺」
これが健常者での最後の試合となった。
後悔しか残らない、情けない終わり方であった。
骨肉腫の病魔が潜んでいた。

半年の入院で3回の手術
10時間に及ぶ人工関節置き換え手術
抗がん剤治療

一度私は健康を失った・・・

・学校に行く
・友達と遊ぶ
・バスケをする
当たり前に続くものだと思った。
失って初めてかけがえのないものだと気付いた。

健常者の時はバスケはハードだったから、正直辛くてサボりたい全力で練習をしていなかった。

入院中は「バスケをやりたい」と強く想っていた。

骨肉腫と告知されていたのは両親だけで
複雑骨折と説明されていた。

コーチからバスケを雑誌の差し入れ。
NBA「世界最高峰バスケリーグ」の大ファン。
レイカーズのファンでシャックとコービーのファン。


母親に頼み放送されていた試合録画してもらい
試合を観るのが入院生活での楽しみだった。
ある日録画し忘れたと言われぶち切れた笑。

24時間テレビで100キロマラソンを観て
24時間も走ってカッコいいな!
ラソンを始める原点となったのは24時間テレビであった。

・中学校時代
【体重】痩せる→デブ→痩せる

小6の夏から中1の冬にかけて行った治療は全て終わった。
抗がん剤で痩せてしまったが、今度はストレスでお菓子を食べるようになり激太り。

【バスケ】
部活は左腕が不自由なこともあり、マネージャーとしてバスケに携わっていた。

中3のある日の練習
サボっている同級生がいた。
「もっと真剣にやれよ」と強い言い方をしてしまい口論になった。
記憶が曖昧だがキャプテン、エースの親友のKから「マネージャーのくせに偉そう」と言われ悲しい、複雑な気持なり部活に行かなくなった。
「ごめん」と何回もメールが来る。
学校に行っても気まずい雰囲気になった。
「何でそんな意地になってるんだ俺?」1ヶ月くらい行かなくなると、もう戻るに戻れなくなってしまった。

ある日、恩師である体育で担任の先生に呼び出された。

先生
「Kともさっき話したけど、あきは今どう思ってるの?」
あき
「気まずくなり、行けなくなりました」
「正直部活に参加したいです」
苦しくて泣いて、先生と色々な話をした。

結果、バスケ部に復帰。

恩師であるバスケの顧問の先生から提案がありました。
「あき 選手として残り1ヶ月半やってみないか?」
接触プレー禁止。ゴール下禁止でな」
「はい」やりたいです!

練習に参加するが身体は思うように動かきませんでした。
しんどかったが、バスケを出来る喜びの方が大きかった。
練習試合に数試合出させてもらったが何も出来なかった。
顧問の先生から
「なぜ打たない?」
「あきノーマークだったらシュートだ」
練習試合で初めてレイアップシュートを決めた。


1本だけだけど、自分にとっては価値のあるシュート。
公式戦になると出番はなくなり、一進一退の試合も多くなりました。
Kがブザービーターで逆転ゴールを決めて数年ぶりの県大会出場を果たしました。

一回戦では中盤間までは一進一退の攻防が続きました。
相手の実力の方が上で、点差が離れてしまいました。
残り58秒で「あき 行ってこい」
公式戦初出場を果たしました。
リバウンドを取りシュートを打ちました。
「ピーファール」とフリースロー2本のシュートチャンス。
1本目を放つ 外した・・・
「次は決める」
2本目は決めた


残り10秒でスローインパーサーはあき。
「Kー」何も迷わずにKにパスをしました。
「お前が作り上げたバスケ部お前が終わらせろ」
いつも通り正確無比のシュートはきれいだった。
その後Kは高校でインターハイで活躍し、名門大学でチームを引っ張り活躍することになる。


最後の反省会
顧問「あき なぜゴール下にいたんだ」
あき「分かりません」
顧問「フリースロー1本決めたもんな」
  「Kの次にあきがバスケ詳しいな」
  「よく頑張った」

【マラソン
毎年冬にマラソン大会があります。
中1は抗がん剤治療の為棄権。
中2は参加することになりました。
男子3.5キロ、女子2.0キロと体育の授業で数回試走しました。
走れないので、サボっていましたが最後の1回走ることになりました。(女子コース)
息が上がり、身体も動かずになんとか完走しました。
ラソン大会本番も女子コースを走り先生が付き添って走りなんとか完走しました。
後日、体育の先生に呼び出されました。
「あき 今の身体だとダメだよ」
「親御さんが心配してるよ」
と言われ、来年走れるようにジョギングを始めました。
週に2回、3回走るようになりました。
最初は走る前に拒絶反応。
走ったら汗だくでしんどかった。
モチベーションを上げるために記録をとるようになりました。
「だんだん速くなっている」と喜びを感じ
3ヶ月で別人になりました。
友達からも先生からも「痩せたね すごい」と周りの反応も変わりました。
習慣になり、1年の練習の成果を発揮し中3では男子コースを完走することが出来ました。

・高校時代
【体重】ずっと痩せてる

病気で左腕が使用出来ない為、高校ではマネージャーとしてバスケに携わっていました。
高3の先輩が引退後、部員が足りなくなりました。
以前選手としてやったこともあり、マネージャーではなく
選手としてやりたい気持ちが強くなりました。
顧問の先生に【接触避ける】ことを条件に選手として
バスケは続けました。
顧問の先生は男女とも一緒でした。
体格差もあり、接触プレーもある為そうなると胸も触ってしまうこともある。
男子6人、女子10人と一緒にやらないと練習にならない為一緒でした。
弱小だったので、公式戦1勝を目指して力あわせて頑張っていた。
フル出場することもあったが、活躍は出来なかった。
右手だけてしか使用出来ないので、そもそも出来ることも少ない。
バスケが好きなので、悔しいけど楽しかった。
一勝も出来ずに月日は経った・・・
高校2年生の冬に1週間入院と手術をすることになりました。
原因は左腕使用し過ぎの為、炎症を起こしてしまいました。
その後、1ヶ月間は部活に参加せずに物足りない日々を過すことになりました。
1ヶ月後部活に参加するが、左肩が少し腫れてしまい。
バスケから遠ざかることになりました。
「バスケやりたい」という気持ちは薄れていきました。

・医師からバスケはやってはダメと言われていた。
 (中学校の時も)
 人工関節だから普通の腕とは違う。
 感染、折れたら切断の可能性がある。

・切断のリスクを負ってもバスケやる。

奇跡的に接触もなかっただけであった・・・
「酷い傷で嫌だ でも、死ぬほど大事な腕だ」
切断の覚悟なんて1ミリも考えていなかった。
「高校だけは許してくれ神様」


残り数ヵ月部活に戻った本当にラストだ。
まだ一勝も出来ず引退試合を迎えた。
過去一でいい試合になったが、後半点差が離れしまいました。
残り5分出場。
ディフェンスはあっさり抜かれてしまい何も出来なかった。
千載一遇のチャンスが来た。「ノーマークだ」
スリーポイントシュートを放った。


入った・・・
こうして私のバスケ人生が終わった。
不思議と涙は出来なかった。

・専門時代
【体重】ずっと痩せていた

高校バスケ引退後週に3.4回 5キロジョギングしていました。
もうそろそろ大会に出てみたいと思い
月1で10キロの大会に参加して完走しました。
「次は20キロ挑戦しよう」
19歳ゴールデンウィーク 完走
20歳ゴールデンウィーク 完走
2回とも風邪をひきゴールデンウィーク期間寝込んでしまった。
「健康壊すならマラソンやらない」

・社会人
【体重】痩せて→太って→痩せる

20歳の時に障害者採用で大手企業に就職する。
事務職として、働くことになりました。
入社する前の健康診断では、聴力には問題があるが日常生活では問題なし。
配属された場所は、コールセンター並みに電話が鳴る。
新人の私は誰よりも速く取らないといけない。
当然聞き間違いも多く、お客様、営業に怒られることもありました。
20歳の若い自分をみんな可愛がってくれました。
だから頑張れた。
しかし、1週間で限界を越えて帰りの電車中で泣きました。
何とか奮い立てて、9か月間頑張りました。
電話応対、雑務も積み重なり。
17歳の時と同様に炎症を起こして入院することになりました。
洗浄手術をした後
抗生剤の点滴(バンコマイシン)を2週間ほどやりました。
強めな薬で、血管が持たず頻繁に点滴を打ち直しました。
熱で動けない日も続いてベッドでぐったりしていることかが多くなりました。
散歩出来るようになり、病院の屋上でバスケを30分やりました。体調が急変してしまいました。
バンコマイシンのアレルギーと言われ、別の抗生剤をやることになりました。
(これは誰にも言ったことない 怒られるな笑)
子どもだけの病院なので赤ちゃんや小学生、保育士さんと遊ぶのが日課になりました。
歌ったり、折り紙したりと仕事から解放されて楽しかった。
子どもからもいじられる始末、生涯いじられキャラなのかもしれない。
若いピチピチの看護士「いやー可愛かったな」

と沢山話をしたり、髪を洗ってもらってる時間は祝福な時間だった。
熱があって辛かったけど、俺は楽しかった。
ある日朝起きたら、黄色い汁でシーツが濡れて焦りました。
皮膚が薄くなって、人工関節が皮膚を破っていました。
人工関節の部品を一部摘除と洗浄手術をすることになりました。
手術前に浣腸をしないといけません。
子どもこの頃からお世話になっている看護士にお尻を見られるのが猛烈に恥ずかしくなりました。
当時流行っていた「トイレの神様」をトイレで聞き。
浣腸回避作戦1時間の攻防が続いたが、怒られて浣腸をしてもらうことになる。
あの感覚は苦手である笑


手術後すぐに退院することになりました。
退院する時あまりにも寂しく、部活を引退した気持ちになりました。
「看護士さん可愛かったなメアド交換すればよかった」1ヶ月入院生活が終わりました。
1ヶ月休むと復職診断を出さなければならず、なかなか書類を書いて貰えずしばらく自宅休養 計2か月会社休む。
「しゃあない これはチャンス」
ずっとやってみたいこと挑戦しよう。
「髪を染めたい シルバーかレッド」
美容師に相談した所
「シルバーは脱色して何回も染めないと出来ないよ」
「究極に髪に悪い色 レッドを勧められた」
「おーカッコいい」と自己満足していた笑

復職前に髪を黒く戻すが、戻しきれず上司に
「お前髪赤くない?」
「えっそうですか?」
まあ、怒られた。
無事復職することが出来ました。
左腕、難聴もあり電話対応をしなくて良くなりました。

運動に関しては社会人になっても
休日走る習慣は続けていたが、サボったりすることもあった。
仕事も忙しくなり、飲み会で暴飲暴食の機会も増えて体重が増えてしまった。

それが原因か、22歳の時に喘息になってしまいました。
運動する週間が薄れて更に太ってることになりました。

ここで終わってほしいと願いは届くことはありませんでした。

25歳の時、お風呂入ってる時に左肩の皮膚が破れてしまい
血が出てしまいました。
夜間病院に行き、処置をしてもらい。
後日手術をすることになりました。
17歳、21歳と同様に洗浄手術をしました。
生検をしてバイ菌があることが判明。
体内にバイ菌があるのは生命に関わる。
プランとしては
抗生剤飲み薬でバイ菌退治→人工関節を取り除く
→骨がなくなるので、抗菌材入りセメント留置→
徹底的にバイ菌退治
→新しい人工関節に入れ換える
右の腸骨を移植して人工関節と肘の骨が薄いので補強として。


この手術で大変なのは人工関節を入れ換えることです。
人工関節が癒着して身体の一部になっている。
普通の人と違うところに神経があり、傷つけずに入れ換えるのは難しいらしい。
傷つけたら、麻痺などの障害にもなると説明された。
最低3回の手術と治療期間は半年から1年必要。
結果3回の手術と半年の入退院で終わりました。
これで大台の手術10回目。

「また、始まったよ」
人工関節という異物が入ってるので仕方ないこと
バスケ、高校の時にレジのバイト、仕事と酷使したのが
原因かも知れない。原因だよな笑
結果入退院繰り返し、半年で治療が終わった。
手術前に風邪を引いてしまい1ヶ月間手術が延期
のトラブルがあった。
左腕三角巾しながら、出社するなど大変だった。
人工関節はトラブルがあった時、大変である。
将来どうなる分からないが、骨肉腫で大変だったのはここまで。

退院後に職場寿命を伸ばす為にパソコン入力だけの
負荷がかからない部門に異動したしました。

そして、25歳で最重量70キロ、ウエスト90センチ、体脂肪25%デブである。

その後
ジムに通う痩せる
フルマラソン完走し
100キロマラソンまで完走するようになりしました。
別にノート書く予定 お楽しみに😌

アイドルとあき

ここまで話したらダイエットを成功しスポーツマンだと思われますが、趣味はド非モテでした。

しっかりと女性関係で悩んでいました。

会社先輩👨「AKB48好き」「劇場公演行かない?」
あき👦「気になります」「是非行きたいです」
当時職場が秋葉原なので、たまにメイド居酒屋を
会社の人と行っていたので偏見がなかった。
人生経験として行くのもいいなと思い、誘いにのりました。

先輩といっても、19歳年上でおかっぱ頭。
めっちゃ仕事も出来るし、優しいしいい人。

初めて行ったAKB劇場公演のステージですが、
平均年齢が16歳くらいの女の子。
アイドルという職業を間近でみたことはなかったが、
こんなにもエネルギーをくれるんだと思いました。
初めて佐藤七海をみた時は天使だと思いました。
推しメンになりました。
それに比べて「俺は何やってるんだ?」と思いました。
この後にダイエットに目覚めることに・・・
気付いたら、アイドルオタクになっていました。

3年間
ライブ20回 (沖縄、岩手遠征) 推しメンの為
劇場公演30回
握手会(全国握手会)1回
その他イベント10回
合計60回

主要ライブ
AKB 小嶋陽菜卒コン、指原莉乃卒コン
乃木坂 橋本奈々未卒コン、シンクロニシティライブ
欅 坂 欅共和国

ベストコンサート👏
チーム8結成2周年記念特別公演 in 沖縄は、「めんそ〜れ!春のエイト祭り」

あの2日間を越えるライブはない😎

沖縄に行ったのに首里城しか観光行っていない笑
48グループ、坂道シリーズにお金も時間も使ってきた。

もはや秋元先生が好き!